何か書かなければならないという事について

2020年12月28日月曜日

寝れないときによむ小説

うーん、書くこともないけれど何かしら書かないといけない。

人間には往々にしてそういう時期がある。ある人は小学生でそれを体験し、ある人はよぼよぼのおじいちゃんになって筆をとる。

これまで一度も赤ちゃんでこのような衝動にかられた、というのは僕はまだ見たことがない。字を、そして言葉を操れないのだから。それは当然のように思う。

あるいはある程度言語を学んだあと、脳がそのような欲求を発するのかもしれない。

これはなにかしらしっくりくるものがある。我ながら自分の説に相応の説得力を感じる。


……いや待て。赤ちゃんで。

見たことがあるかもしれない。あれはそう。文化祭が1週間後に迫ったある日、好きだった女の子にコテンパンにフラれた日だった。


その日僕の帰り道は悲惨だった。

ずっと頭にあったのはコテンパンにフラれたことよりも、どうして明日からの学校生活を乗り切ろうか、というある意味明日を向いた悩みだった。

とにかく顔を合わせずらい。


学生の頃の告白、そして学級内の人間関係というのは、今からは想像もできないほど大きなもので、世界と言えば学校、学校と言えば世界、というくらい大きなものだった。

たぶん多かれ少なかれ学生とはそういうものなのだと思う。


そんな風に頭の中はどんどん違う方に思考する。明日の学校どうしよう、から学生の定義までそしてその先にはたぶんねぎの値段なんかに思考は進んでいたんだろう。今の僕は覚えていないけれど。

多かれ少なかれ学生とはそういうものなのだと思う。


そんな頭と体完全に分離していた帰り道、田んぼの横、傾いた太陽がたんぼの水にまぶしい。

すれ違う。


赤ちゃんをベビーカーにのせた女の人。


いつもならこの時期は虫の鳴き声が鳴りやまないけれど、その日僕の耳は違う音で占められていた。


そう。赤ちゃんの泣き声。それもこの世の終わりのような、あの太陽が今にも田んぼに落ちてきて僕らみんな一瞬にして焦げてしまうかのような鳴き声。


たぶんあの赤ちゃんの泣き声は今まさに何か書きたい、この太陽の風景をたとえをふんだんに使って文章にとどめたい、という気持ちの表れだったのだろう。

出なければあそこまで激しくなく理由なんてこれっぽっちも考えられない。


……


なにか書かなければいけないけど書くことがない。

そうして書くことがないからコテンパンにフラれて、赤ちゃんの話まで、思考はどんどんずれていく。


多かれ少なかれ人間というのはそういうものなのだど思う。

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